「どんな子どもだった?」「学生、社会人のころは?」「なぜ議会議員になった?」「なんくるならん、自分次第って?」。もっと知りたい方は、宮城勝也の歴史をご覧ください。
【プロフィール】
【歴史】
■誕生
昭和49年8月20日生まれ。父 勝、母 絹代の宮城家長男として生まれました。弟2人、妹1人の4人兄弟の長男です。
■幼少時代
ウルトラマン、仮面ライダー、戦隊ヒーローが大好きで、毎日弟たちとおもちゃ遊びやゴッコ遊びにはまっていた幼少時代でした。お菓子やターンムディンガク(田芋田楽)などオバーからのカメーカメー攻撃のおかげで肥満児サイズに大きく育ちました。
■小学生時代
白川小学校第7期生として入学。小学1年生から5年生まで学級長、小6には児童会長を務めました。小さいころから体が大きく、なにかと目立つ存在。童話お話し大会にも出場しました(写真左)。
同級生の女子に「まるでお父さんのような勝也君」と言われていました。その時の何とも言えない気持ちはいまでもうまく表現できません。
父の影響で小4に野球を始め、近所の大倉ハイツチームに入部。将来はプロ野球選手を夢見て、学校の休み時間も放課後もテレビもファミコンも野球ばかりの毎日でした(写真右)。
■中学生時代
東風平中学校第42期生として入学。部活動は野球部に入部。肥満児だった体型もだんだん絞られて、陸上競技大会や駅伝大会に学校代表として出場しました。
中3の時には生徒会長に選ばれました。多くの行事をこなせたのは他の生徒会役員やクラスメート達の支えがあってのもの。この経験は、今の私の活動の支えにもなっています。
■高校生時代
沖縄水産高校第44期生として入学。野球少年の憧れ「甲子園」を目指して野球部に入部。3年時の春の県大会に捕手で出場し、野球人生で初めての優勝。最後のバッターを三振に打ち取った時のキャッチャーミットの感触は今でも覚えています。
「夏の甲子園2年連続準優勝」という偉大な先輩方に続け、と挑んだ最後の夏の県大会は、私たち部員の不祥事で出場辞退。試合をせずに高校野球を終えました。「もう二度と野球なんてやるものか」と大きな挫折。辛い思いを紛らわせたいこともあって、すぐに自動車教習所に通い詰め。大学進学を目指していましたが、勉強する気にもなれず、なんとなく過ごす日々。
しかし、部長と監督は不祥事を起こしてしまった私たちに対して、熱心に進学先や就職先の面倒を見ていただきました。私にも大学進学の後押しをしていただき、私の希望の進路でもあったし、部長、監督の想いにも応えようと、北海道への大学へ進学、野球を続けることを決意しました。
■大学生時代
東京農業大学生物産業学部5期生(現北海道オホーツクキャンパス)として入学。
大学は北海道網走市にあり、遠く沖縄を離れた雪国での生活は、日の出日の入りの時間から生活スタイル、野球の練習の仕方から考え方までなにもかもが違っていることにカルチャーショック。
先に入学していた沖水野球部1学年上の先輩に支えていただきながら、「お笑いポーポー」のビデオで大笑い、沖縄を懐かしみながら、徐々に生活環境に慣れていきました。
3年、4年時にはベンチ入りを果たし、明治神宮球場での全国大会に出場。試合には出場しませんでしたが、対戦相手には後にプロ野球で活躍する選手もいて、また、同期や後輩からプロ野球選手が誕生し、今も後輩たちが活躍していることは自慢でもあり誇りです。
水産高校、農業大学へ進学しましたが、野球進学であったため、当時は、水産業や農業に関する関心が低く、勉強や経験を積むことができず、「野球だけ」で生きてきた学生時代をもったいなく感じています。特に北海道の4年間の生活は、沖縄では経験できないものばかり。もっといろんな経験や学び、北海道の大自然を体験しておけばよかったと、正直、後悔しています。
しかし、野球というひとつのコトを通して、県内外の多くの仲間や恩師との出会いや雪国での生活、出場辞退という挫折もあわせて、自分らしい人生だなと思っていますし、それらすべては、今の自分に活かされている。これらがあったから今の自分がいる。それがモットーとしている「なんくるならん、自分次第」の考えにつながっています。
■社会人時代
「就職するなら、地元(東風平町)にはない他の人とは違った職種に挑戦したい」と考えていたので、大学からの勧めもあり、観光植物園として人気の東南植物楽園へ入社。生まれ育った南部から離れた中部での生活と、観光業の仕事は毎日刺激的で充実した日々でした。
総務、営業、施設管理、経営など様々な経験をさせていただきました。一夜で1万人を動員したクリスマスイルミネーションや当時は輸入が難しかった昆虫を展示する夏休みイベント、1,000人規模のガーデンパーティなど、企画立案から運営まで携わったことは貴重な経験に。上司や先輩後輩社員の皆さんにとても恵まれ、社会人としてのスキルや責任感を身に着けることができました。
「人がやらないことに真っ先にチャレンジする」 「人を幸せにするサービスを追求する」当時の経営理念は、議会議員としての思考や活動の基礎になっています。
■議員時代
平成18年にふるさと東風平町が具志頭村と合併し八重瀬町が誕生。私のまわりでも同世代が国や県、市町村議会で活躍し始めていました。
平成22年。勤めていた東南植物楽園の経営体制が刷新されることとなり、私も今後の人生に悩んでいたころ、両親から突然「とにかく帰ってこい」との電話。「若い議員を育てよう」と地元地域の方々から声がある。両親、地域有志の方々から私へ打診がありました。突然のことで驚きましたが、「自分の生まれ年に誰にでもそうある機会ではない」「新しい八重瀬町にも若い世代の力が必要だ。その役割が自分なら挑戦しよう」と出馬を決意しました。
・平成22年9月 1期目選挙 617票 15番当選
総務厚生常任委員、議会広報常任委員、島尻消防環境組合議会議員
・平成26年9月 2期目選挙 861票 4番当選
経済産業文教常任委員、議会広報常任委員長、議選監査委員
・八重瀬町長選挙
当時の町長が勇退することとなり、私を含めた町議会議員2人と元県議会議員1人が立候補。三つ巴の選挙の結果、元県議会議員(現町長)が当選し、私は落選しました。落選直後は応援していただいた皆さんへ顔を向けることができず、「もうこの町では生きていけない」と思うほど、ただただ落ち込んでいました。
そんな私の様子を見た後援会の仲間たちが、落選翌日に激励会を開いてくれました。「こんなに選挙やったのは初めて」「マイクでの演説は面白かった」とそれぞれの言葉で選挙を振り返り、「とても貴重な経験だった。勝也さん、ありがとう。また頑張ろう」感謝と激励の言葉をかけてくれました。そんな仲間たちの言葉と想いが「これからもこの町で頑張ろう!」と私を再び奮い立たせてくれました。
また、地元の宜次自治会から「自治会運営を手伝ってもらえないか」とのお声掛けをいただき、地元への恩返しも含めて
二つ返事で引き受け、書記会計を2年間勤めさせていただきました。議会議員のころには見えなかった地域の現状と課題を知る機会となりこれを解決するためにどうするか、一町民になっても、そのことを考える日々でした。
・議会へ復帰
町長選挙後、9月の議会議員選挙。町長選挙を共に選挙を戦った後援会、青年部の仲間たちの想いと、私へ投票していただいた2,861票のみなさんのご期待に応えるべきだと奮い立ち、3期目への立候補しました。
・平成30年9月 3期目選挙 998票、2番当選
議会運営委員長、経済産業文教常任委員会委員、南部広域行政組合議会議員
町長選挙で掲げた「みんなで創ろう!やえせ新時代」のもと、3期目の議員活動がスタートしました。
■結婚、長女誕生
平成29年7月に妻 諭野と結婚。待望の長女 芙光が令和3年9月に誕生。娘の子育てをとおして、その経験と感じたことを行政・議会の場で取り上げ、もっと子育てしやすいまちづくりに、子育て世代の代表という意識をもって活動しています。
■4期目当選
・令和3年9月 4期目選挙 1,125票、4番当選
総務構成常任委員長、島尻消防組合議会議員及び議選監査員
コロナ禍、県初の県知事選挙と同日選挙というこれまでにない環境の中、「朝夕の挨拶運動無し」「決起大会などの集会無し」「選挙カーに乗らず自転車で選挙運動」というこれまでにない選挙スタイルで挑戦。1,125票をいただき全体4位で当選しました。